扇状地と湧水

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20240222itachigawa2.jpg▪️富山旅行の3日目の最終日(2月21日)、富山市内にある「石倉町の延命地蔵」を訪ねました。ここは湧き水が出てくるのですが、たくさんの方達がその水を汲みにこられていました。詳しくは以下の「立山黒部ジオパーク」のサイトにある説明をお読みいただきたいのですが、ここは「常願寺川が運んだ土砂の堆積によってつくられた、扇状地の扇端部」なのです。立山の積もった雪が溶けて、扇状地に染み込み、非常にゆっくりと地下を流れて、扇状地の一番端から湧き出てくるのです。その湧き水と延命地蔵信仰とが融合しているわけですね。

富山市街を流れる「いたち川」沿いには、延命地蔵尊がいくつも祀られています。安政5年(1858)に発生した飛越地震により、立山カルデラの一部が大崩落し、溜まった土砂が自然のダムを作り、それが決壊して常願寺川からの濁流が町を襲いました。多くの死者や病人が出たなか、夢のお告げで川底からお地蔵様を引き上げて奉ったところ多くの病人が救われたと伝わっています。石倉町の延命地蔵が祀られている場所は、常願寺川が運んだ土砂の堆積によってつくられた、扇状地の扇端部にあたります。扇状地はたびたび洪水に見舞われますが、扇端部では豊かな水の恩恵を受けることができます。この場所では、扇状地に染みこんだ立山の豊富な雪解け水が、清純な地下水となって湧き出し、万病に効くといわれ延命地蔵の水として人々に利用され続けています。

20240222itachigawa8.jpg▪️富山平野の背後には、北アルプスや飛騨高地(飛騨山地)があり、そこからいくつもの急流河川が富山平野に流れ出してきます。そして、水深1200mもある富山湾に注ぎ込んでいきます。そのため、この富山平野にはいくつもの扇状地群が発達することになりました。東側から、黒部川扇状地、片貝川扇状地、早月川扇状地、上市川扇状地、常願寺川扇状地、そして庄川扇状地です。最後の庄川扇状地=砺波平野は、散居村の景観で有名ですね。こちらの扇状地では、「屋敷林に囲まれた約7,000戸を超える家(農家)が点在」しています。こちらの地図をご覧いただけばわかりますが、投稿線の間隔が広いです。扇状地ではありますが、他の扇状地に比べて傾斜が緩やかです。だからこの扇状地の中央部分は、砺波平野と呼ばれるのでしょう。この庄川扇状地の散居村もいつか見学にぜひ行きたいと思っています。ただ、今回の旅行で訪問したのは、上記の引用にもあるように常願寺川扇状地になります。

▪️延命地蔵尊のあるいたち川は、元々は、この常願寺川を源とする川でした。そして、以前は常願寺川と神通川をつなぐ川だったようですが、今は、常願寺川から取水する「常西合口用水」から始まって、田園地帯、住宅街、市街地を流れて、最後は神通川につながるようです。さて、このいたち川、前述の説明では、地震により自然にできたダムが決壊して、水害の大変な被害にあった地域のようですね。そのあたりのことも含めて、地理的な特徴と災害について解説している「富山平野の土地条件と自然災害-急流河川がつくる扇状地群の平野」をネット上に見つけました。執筆者は、千葉大学で教員をされていた水谷武司先生です。「防災講座: 地域災害環境-日本各地の災害危険性に関わる自然環境・社会要因・災害履歴-」の中の一つの講座のようです。地理的なことに関して素人の私にもよく理解できる解説になっています。関心のある方は、ぜひお読みいただきたいなと思います。富山の地理的な特徴をよく理解できます。

▪️このいたち川に関連して、神通川のことも調べてみました。すると、今の神通川に河川整備されたのは、明治以降のことなんですね。ここではわかりやすい資料をネット上に見つけましたので、そちらのリンク先をここに貼り付けておきます。神通川沿いもよく水害が発生した地域のようです。ただ、明治以降、今の富山市の中心市街地は、河川整備により神通川の流路を変化させ(直線化)さい、その廃川になった跡地にできた場所なのだそうです。埋め立てたわけですね(新たに運河を掘った時に出た土砂で)。そのようなこともあり、土地の方のお話では、今年の元旦の地震によって道路に被害が発生したとお聞きしました。埋め立てた土地は、地震には脆弱ですから。

月刊グッドラックとやま 2003年7月号
月刊グッドラックとやま 2003年8月号 
月刊グッドラックとやま 2003年9月号

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20240222itachigawa7.jpg▪️もうひとつ、「そうなんだ」と驚いたことがありました。このあたりが小説家の源氏鶏太(1912年・明治45年~ 1985年・昭和60年)の故郷であったということです。源氏さんは富山の生まれだったんですね。といっても、お若い皆さんはご存知ないでしょうね。私の年代でも、同世代であれば読むことは少ない小説家なんだと思います。私の場合ですが、亡くなった昭和一桁生まれの両親が、通勤の際に、源氏鶏太の小説を文庫本でよく読んでいて、家に書架に並べてあったその文庫本を高校や浪人の頃に手に取って読んでいたんですね。

▪️それから、小説家の宮本輝さんが、1978年に第78回芥川賞を受賞した作品『蛍川』は、この投稿で取り上げたいたち川が舞台になっているようです。「いるようです」というのは、私は、宮本さんの『泥の河』と『道頓堀川』は読んでいるのですが、この『蛍川』は未読のように思います。『蛍川』は富山のいたち川が舞台だったんですね。今回は、扇状地と災害、そして源氏鶏太と宮本輝、いろいろ勉強になりました。

午後は大津市歴史博物館

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20231119rekihaku2.jpg▪️ひとつの前の投稿にも書いたように、今日の午前中は、堅田の内湖で清掃活動のボランティアに取り組みました。帰宅後、清掃活動で汚れた服の洗濯を済ませて、午後からは大津市歴史博物館に行きました。到着した時は、15時になっていました。今日は、親鸞聖人御誕生850年記念企画展「近江堅田 本福寺」と、第92回企画展「50年前の琵琶湖・堅田-大西艸人がみた自然と営み-)、この2つの企画展の最終日だったのです。午前中だけでなく、午後からも堅田です。大変満足しました。

▪️今日は両企画展とも最終日ということだからでしょうか、前者の「近江堅田 本福寺」には本福寺のご住職のご家族が、「50年前の琵琶湖・堅田」には写真を撮影された大西艸人さんご本人が博物館にお見えになっていたということを、博物館の館長さんから聞かせていただきました。私自身大西艸人さんにはお会いできませんでしたが、本福寺の関係する若いご家族には、偶然にお会いしました。休憩ベンチのそばで、動画が上映されていました。それは、本福寺のおそらく先先代のご住職のようでした。ひょっとすると「節談説教」だったのかもしれません。その動画を拝見していると、前のベンチに、1人の男性がお座りになりました。そして、そばには奥様やお子さんも一緒でした。そしてその男性は動画を指さして、「ほら、ひいおじいちゃんだよ」と話されていました。この方がご住職なのか、ご住職のご兄弟なのか、その辺りはわかりませんが。

▪️「近江堅田 本福寺」を担当された学芸員の方によれば、現在のご住職は本福寺に所蔵されていた貴重な古文書を、仏教研究者や歴史研究者が学問的史料として扱うことをお認めになりました。だから、今回の企画展が可能になったのです。以下は、担当された学芸員の高橋大樹さんのFacebookへの投稿です。素晴らしいですね。この企画展は今日で終わりですが、この企画の続きはまだまだこれからも続くとのことでした。そうあって欲しいです。

▪️トップの写真ですが、博物館での観覧を終えて外に出たところから撮った琵琶湖の南湖の景色です。

親鸞聖人生誕850年記念企画展(第91回企画展) 「近江堅田 本福寺」

▪️大津市歴史博物館の学芸員・高橋大樹さんのFacebookへの投稿です。公開されていましたので、このブログでもシェアさせていただこうと思います。高橋さんのご投稿からはすごく伝わってくるものがありました。お読みください。また、この投稿に中で述べられている企画展にもお越しください。

親鸞聖人生誕850年記念企画展(第91回企画展)近江堅田 本福寺」(開催期間 令和5年(2023年)10月7日(土曜)から11月19日(日曜)まで)

夏休みの自由研究(その3)

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▪️夏休みの自由研究(その3)です。自由研究のテーマは、恐竜と鉄道だけではありませんよ。歴史についても勉強しました。行ったのは、「福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館」と「一条谷朝倉氏遺跡」です。これまで、この朝倉氏のこと、よく理解できていませんでしたが、戦国時代、歴史上重要な大名だったのですね。意識を新たにしました。教養が足りません。図録も購入しましたので、きちんと自分で補習することにします。2019~2020年度に放送されたNHKの大河ドラマ『麒麟がくる』にも、朝倉氏の最後の当主である朝倉義景が登場していました。俳優のユースケ・サンタマリアさんが演じられました。ですので、ご記憶の方もいらっしゃると思います。残念ながら、私は、先にも書いたようにこの戦国時代の教養が不足していますし、この大河ドラマも視聴していません。

▪️上段左の写真、博物館の下を撮ったものです。遺構の上に博物館が建っているのです。これは調査で偶然発見されたという石敷き遺構(幅5.6メートル、長さ38メートル)です。博物館1階で出土時の状態のまま露出展示しています。川湊「一乗の入江(いりえ)」の船着き場か道路と考えられているようです。展示も、いろいろ工夫されていて、素人にもわかりやすいものになっていました。とても繁栄していた戦国時代の都市ということで、海と川を通って、海外からも様々な物も運ばれていたようですね。改めて、近代以前には舟運が重要であったことを再認識しました。「一条谷朝倉氏遺跡」は博物館の場所から少し離れたところにあります。

▪️以下は、「特別史跡一乗谷 朝倉氏遺跡」の公式サイトから転載させてもらったものです。朝倉氏が支配した越前や一乗谷の城下町が、当時どれだけ栄えていたかわかります。しかし、1573年、最後は織田信長に敗れ、城下町は焼き払われます。織田信長は徹底していますね。1571(元亀2)年には、延暦寺を焼き討ちしていますし。

朝倉氏は現在の兵庫県養父(やぶ)市出身の豪族で、南北朝時代に朝倉広景が主人の斯波高経(しばたかつね)に従って越前に入国しました。朝倉孝景の代、1467年の応仁の乱での活躍をきっかけに一乗谷に本拠地を移し、斯波氏、甲斐(かい)氏を追放して越前国(えちぜんのくに)を平定しました。以後孝景(たかかげ)、氏景(うじかげ)、貞景(さだかげ)、孝景(たかかげ)、義景(よしかげ)と5代103年間にわたって越前国の中心として繁栄し、この間、京都や奈良の貴族・僧侶などの文化人が訪れ、北陸の小京都とも呼ばれました。しかし天下統一の戦いの中で1573年織田信長に敗れ、朝倉氏は滅び、城下町も焼き尽くされました。

▪️焼き払われた一乗谷が再び姿を表すのは、1967年から始まった遺跡の発掘によってでした。現在では、写真からもわかるように、当時の城下町の町並みも一部再現されています。当時の城下町の様子を頭の中に想像しやすくなりますね。もちろん、再現されていなくても、館の跡や庭園の跡から当時の様子を想像することもできます。ただし、その場合は、知識や教養、事前の学習が必要になるでしょうね。こちらでも、図録を購入しました。まずは、それらの図録あたりからきちんと勉強してみようと思います。その上で、滋賀県にある「姉川の戦い」の戦跡を巡ってみなくてはと思いました。この「姉川の戦い」とは、現在の滋賀県長浜市で、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の間で行われた合戦のことです。

「真宗と聖徳太子」(龍谷ミュージアム)・「親鸞 生涯と名宝」(京都国立博物館)

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■昨日、住んでいる大津市は市会議員選挙でした。投票所まで歩いたのですが、せっかくだからと、投票を済ませたあとも次の駅まで歩くことにしました。距離は約4kmで、234kcalを消費しました。投票とウォーキングを済ませた後は、京都の龍谷ミュージアムと京都国立博物館へ移動しました。

■今年は、親鸞聖人御誕生850周年・立教開宗850年の記念の年ということもあり、両方の博物館ともな親鸞聖人に関係する展覧会を開催しています。JR京都駅から龍谷ミュージアムまではもちろんのことなんですが、龍谷ミュージアムから京都国立博物館までも歩きました。2つの博物館の間は約2kmです。大した距離ではありませんね。120kcal消費しました。でも、昨日は、自宅からの行き帰りも含めて全体では8kmは歩いているかなと思います。

■2004年に龍谷大学に勤務してから、浄土真宗のことを「自分なりに」の限定付ではありますが勉強をしてきました。その勉強が今日は少し役に立ちました。音声解説を元に観覧しましたが、本物の歴史史料を拝見できて大変勉強になりました。図録も2冊、きちんと購入しました。もっとも、帰宅時のリュックがとても重くなってしまいました。

Seoul-散策(2)

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「Seoul-散策(1)」の続きです。「徳寿宮」を見学したあと、南大門市場に向かいましたが、まずは、「徳寿宮」のすぐ向かいにあるソウル市庁(市役所)を外から見学。1926年、日本の植民地時代に建設された古い建物(当時は京城府庁舎)の後ろに、2012年に新しく完成した全面ガラス張りの現在の立派な市庁舎が見えます。古い建物は、現在はソウル図書館として運営されているそうです。市庁の前は、冬場はスケート場になります。たくさん皆さんが楽しんでおられました。この辺りは、さらっと見学しただけで南に降りました。すぐに目に入ってくるのが「崇礼門」(南大門)です。ここから脇道に入っていくと、そこが「南大門市場」になります。

■南大門市場は、東大門市場と並ぶソウル二大市場の一つです。ソウル市内にある4つの大門がありますが、そのうちの1つ「崇礼門」(南大門)を起点に、200~500m四方の中に大小約1万店以上が集まっていると言います。そこで売られているものは、衣服や繊維製品、台所用品、贈答品、民芸品、土産物、食品、薬、輸入品、日用雑貨、アクセサリー…暮らしに必要な様々な物が売られています。大変賑やかな場所です。特に、何か買い物をする予定はありませんでしたが、大変有名な場所でもあるので、ここを見学してホテルに戻ることにしました。
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■ものすごくたくさんのお店が集まっています。お店のほとんどは、そんなに大きくありません。むしろ、小さいといった方が良いでしょう。特に、ビルの中に入っているお店は大変小さいです。1軒のお店が借りられるスペースはとても狭いので、商品を上手に積み上げるような並べてあります。独特の雰囲気があります。面白いなと思ったことは、そのような狭いスペースにお店に、店主さんたちは昼食を配達してもらっておられました。おそらくこの南大門の中にある食堂から配達してもらっているのでしょう。通りでは、食事の器が載ったお盆を頭の上に乗せて運んでいる人たちに出会いました。

■昼食は、この南大門市場の中の食道通りにあった冷麺屋さんでいただくことにしました。普通の冷麺もありましたが、せっかく韓国に来たのだから、あえて辛いピビン麺をいただくことにしました。辛いタレを絡めた麺の上に、茹でた牛肉の薄切りと、キュウリとおそらく梨の細切りが乗っており、一番上にはゆで卵が。これをかき回していただくのです。ピビンダというのか掻き回すという動詞ですから、掻き回し麺という意味になるのでしょう。もちろん、ここにはサービスのキムチがついてきます。また、このお店では、牛のスープも出されました。いずれも、美味しくいただきました。辛さもそれほどでもありませんでした。
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■最後の写真ですが、これは韓国銀行貨幣博物館(元・朝鮮銀行)のそばにあった石碑です。このように書いてあります。「3・1 独立運動記念跡 3.1 独立万歳のデモ隊が日帝憲兵警察と激突して200人余りの負傷者を出した所です」。私は、ハングルは一定程度発音はできても、その意味がよくわかりません。しかし、今は、「Google レンズ」の「翻訳」機能を活用すると、スマホを通して目の前のハングルも日本語に置き換えることができます。ただ、日本語に置き換えても、基礎的な歴史知識がないときちんと理解することができません。「3・1 独立運動記念跡」とは、1919年3月1日に日本の植民地時代の朝鮮で起こった独立運動のことです。インターネット上に様々な解説があります。こちらも丁寧に説明してあると思います「Seoul-散策(1)」では、大韓帝国の高宗の住居であった「徳寿宮」を見学しましたが、3.1独立運動は、この高宗の国葬とも関係しています。前述の解説をお読みいただければと思います。
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Seoul-散策(1)

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■9日は金浦空港から夕方の便で帰国することになっていました。中心市街地にある明洞のホテル出発するのは午後2時。それまで時間があったので、ホテルを朝9時半に出発して市内を少し散策することにしました。まずはホテルからタクシーで「徳寿宮」へ移動しました。「徳寿宮」を見学したあとは、徒歩で「市役所」、「南大門、「南大門市場」を廻り、再び「ホテル」まで歩きました。

■「徳寿宮」では、ラッキーなことに日本語のガイドさんに解説していただきながら、歴史の勉強をしました。なんとガイド料は無料です。ガイドさんに「本当に無料で良いのですか?」とお尋ねすると、「私たちは会社から派遣されて給料は持っています」とのことでした。政府かソウル市が、ソウルの観光産業をそうやって支えておられるのかもしれません。この辺りは、よくわかりません。それはともかく、ガイドさんに丁寧に解説していただきました。本当にありがたかったです。最後にお礼を申し上げたところ、「日本人のお客さんは2ヶ月ぶりだったんですよ。その前も、コロナの感染で日本人のお客さんは少なくて、コロナ以前も安倍さんが総理大臣の時代は観光客が減ってしまって…。本当にひさしぶりだったので、上手にガイドができません、恥ずかしいです」と。いやいや、とっても素敵なガイドをしていただきました。感謝感謝です。

■今回、「徳寿宮」を見学して、日本の植民地になる前と植民地にされた後。李氏朝鮮から大韓帝国、そして日韓併合へという歴史の流れの中で、もっと知らないといけないことがたくさんあると思いました。日本の高校までの「日本史」の授業、「世界史」の授業では、植民地にされた側の歴史についてきちんと勉強できないのじゃないのかな…と思っています。

■もし、徳寿宮に関心がおありであれば、こちらをご覧いただければと思います。以下は、その一部を引用したものです。

徳寿宮は、特に朝鮮時代末期から大韓帝国時代にかけての旧韓末の悲運の皇帝・高宗が日帝の圧迫により譲位を強要され、恨(ハン)に満ちた余生を送り、1919年1月22日、徳寿宮の咸寧殿で日帝により毒殺されたと人々に伝えられ、翌々月の3月3日に予定されていた高宗の葬儀の直前の3月1日に起きた3・1独立運動の直接的な引き金となった現場でもあります。

■日本、清、ロシア、日清戦争、日露戦争、攘夷波と開化波、高宗と閔妃…。20世紀の前後の朝鮮の歴史をよく勉強していると、この徳寿宮の見学は大変有意義なものになるように思います。今回は、たまたま日本語ガイドの方が丁寧に解説してくださいましたし、洋風建築の石造殿(1909年竣工、その翌年には日韓併合)でも音声ガイドが充実していてとても勉強になりました。

20230210kankokurekishitizu.jpg【追記】■私は、朝鮮・韓国のことを直接的に研究しているわけではありません。とはいえ、時々、朝鮮・韓国についての本を購入して勉強することがあります。そのような本の中の1冊。この『韓国歴史地図』(平凡社)は、出版社の紹介を引用すれば、「古代から現代までの韓国の歴史を、見開きの美しいカラー地図と豊富な図版でヴィジュアルにまとめ、古代の合戦から現代の事件まで、臨場感あふれる歴史を再現した画期的な歴史地図」です。とても役に立ちます。私自身、自分の頭の中にある朝鮮・韓国の歴史的な知識は、相当乏しいわけですが、この歴史地図で補っています。勉強になります。朝鮮・韓国の歴史を東アジア全体の中に位置付ける解説も多く、お勧めします。ちょっと値段が高いので、購入を躊躇されるかもしれませんが。

漫画『台湾の少年』のトークイベント

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■『台湾の少年』、全巻、揃いました。どんな漫画か。こちらをご覧ください。2月13日には、『台湾の少年』に関して以下のイベントがあります。参加しようと思っています。それまでに全巻読んでおかないと。
『台湾の少年』刊行記念 トークイベント「台湾の近現代史を描く話題のマンガの誕生秘話」ー作者の游珮芸さんと周見信さんに聞くー

百瀬川の隧道(滋賀県高島市マキノ町)

■お世話になっている高島市在住の谷口良一さんが、facebookにマキノ町にある百瀬川の隧道のことを投稿されていました。百瀬川は天井川の下を通る隧道(トンネル)がその役目を終えて解体されるという話題です。その前にこの百瀬川と百瀬川が形成した扇状地のことについて少し確認しておきましょう。私は知らなかったのですが、この百瀬川によって地理学や地理学教育の分野では、大変有名なんだそうです。自分でも少し調べてみました。こちらの「日本の地形千景+α」[/rul]では次のように解説されています。

百瀬川」は,滋賀県西北部と福井県若狭地方に跨がっている「野坂山地」から流れ出しています。山地と平地の境界には「琵琶湖西岸断層」が走っており,その特徴は「西側隆起の逆断層」です。従って,野坂山地側が隆起する度に,河川の「下刻侵食」が激しくなると共に,平地には巨大な「扇状地」が発達します。

百瀬川の強大な侵食力によって,平地には広大な「扇状地」が形成されました。大量に運ばれてくる土砂により,「自然堤防」が高くなって「天井川」となってしまいました。このため,県道287号は「百瀬川」の下をトンネルで抜けています。

【百瀬川扇状地に関して解説しているサイト】
[url=http://www.eonet.ne.jp/~otto/outline-content.html]百瀬川扇状地-扇状地のあらまし

百瀬川扇状地-天井川と治水
120.扇状地 扇端集落のわき水  百瀬川扇状地
コンターサークル地図の旅-百瀬川扇状地

今日のTV番組「新移住時代」「流転!足利義満が愛した秘宝」

20220817ijyushinjidai.png■本日、個人的にはですが、興味深い番組が放送されます。「地域再生・地域づくり」、「琵琶湖」に関連しています。

■ひとつめは、見逃してしまい視たかった番組「クローズアップ現代」の「移住新時代 過疎地域にチャンスあり」です。関西では、今日の夕方に再放送するようです。NHKBS1で17時半からです。

今、都市から過疎地へ移住する若者が増えている。最新の国勢調査によると過疎市町村の半数近くで20代後半から30代の転入者が転出者を超えた。リモートワークを活用し転職せずに移住したり、町の支援策を使って資金150万でパン屋を開業したり、農業で売り上げ1千万を目指す若者が現れたりと、新たなトレンドが。チャンスの少ない都市を脱し、人手の足りない過疎地で暮らし始める若者たち。可能性と価値観の変化を見つめる。

■昨年度に引き続き、今年度も滋賀県高島市で受託研究に取り組むことになっています。取り組むテーマは、関係人口、人口、移住者、移住者の定着過程と受け入れの仕組み等々です。参考になる部分があるかもしれません。期待しています。

20220817syousouhakkei.png■もうひとつの番組は、今晩20時からBSプレミアムで放送される「英雄たちの選択」です。今晩は、「流転!足利義満が愛した秘宝」です。滋賀の「近江八景」は、中国の「瀟湘八景」に倣ったもの。その「瀟湘八景」が、足利義満、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった時の権力者に深く関係していたことを知りませんでした。「瀟湘八景」については、京都国立博物館の解説をお読みください。

今回の番組の主人公は、歴史上の人物ではなく、水墨画の最高傑作といわれる「瀟湘(しょうしょう)八景図」。室町将軍足利義満が愛した秘宝の数奇な運命をたどる。

絵巻は、その後切断され、流転していく。信長や秀吉、家康といった天下人の手に渡り、茶道の大名物(おおめいぶつ)として珍重された。江戸期にはいると、将軍吉宗が、江戸ルネサンスの文化の象徴として、各藩に分散しているこの絵巻を一堂に集めようとした。絵巻の流転の歴史から見えてくるのは、一枚の絵巻に託された権力者の飽くなき欲望とそれに振り回された悲喜こもごもの物語である。

■「近江八景」のもとになった「瀟湘八景」、現在の中国ではどのような状況になっているのでしょうね。状況というのは、実際の景観がどのようなものなのか、加えて、「瀟湘八景」のひとつであることをそこに暮らしている人たちがどのように捉えているのか…ということです。気になってネット上で調べてみましたが、まあわかりませんね。

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