介護

20161124mother.jpg ■大変こじんてきなことですが、介護世代の話題です。老母が兵庫県の介護老人保健施設から滋賀県の老人ホームに移動しました。もちろんあらかじめ説明してあって心の準備もできていたとは思いますが、いざ移動しようとする際には、一瞬、「行きたくない」ということを言っていい始めました(まあ、その気持ちもわからないわけではありませんが…)。「早く死にたいわ」とも言っていました(現代社会では、そんなふうに簡単にはいかないんですよ…)。とにかく滋賀県の老人ホームに移動。妻のサポートもあって、なんとか無事に「お引越し」を済ませることができました。兵庫県から滋賀県まで、私の運転での「お引越し」になりました。

■最初、10年前までは、父が母の面倒を見ていました。その頃は、母も、まだ、まだそれなりにしっかりしていました。視力はかなり弱っていましたが、自宅での移動はまだなんとかなっていました。プチ老老介護状態で済んでいました。ところが、その父が肺がんの末期で1年間寝込んで亡くなりました。2009年の7月です。父の看病と看取りも大変だったわけですが、父が亡くなった後は、一人暮らしの母の生活介護がずっと続くことにな理ました。父の看病をしているときから、なんとか説得して、ヘルパーさんには入っていただけるようにはなっていましたが、母の足腰はさらに弱っていくことになり、一人暮らしも大変な状態になってしまいました。自宅で転倒したり、薬の副作用で動けなくなったり…。ヘルパーさんやご近所の皆さんに見つけていただき、何度か救急車で病院に運ばれました。その度ごとに、仕事をキャンセルして病院に駆けつけました。実際、後頭部を強打し、慌てた時もありました。「これは、もう一人暮らしはあかんやろ!!」ということで、嫌がる母を半ば無理矢理に説得して、介護老人保健施設へ移しました。そして、先日、自宅や職場の近くの老人ホームにやっと引越しができたというわけです。

■こうやって離れたところに住む親の看病・看取り・介護が9年続くと、さすがに疲れが溜まってきました。ということで、母が自宅や職場の近くの老人ホームに引越しできたことは、私にとっては本当にありがたいことなのです。ずいぶん、心身の負担が軽くなりました。どこかにいつもどーんと重いものを抱えているようなそんな精神状態を、家族、友人たちが支えてくれました。もちろん、いつもの大津駅前の居酒屋「利やん」も私にとっては大切な場所です。さらに言えば、マラソンやウォーキングも、気持ちをリフレッシュするのに大切だったかもしれません。親の世話をしながら「老いの学習」を行ってきたようなものなのですが、同時に、自分自身の健康寿命を確保するために、まだ若いうちに筋力や体力を維持しておくことが必要だと心の底から痛感してきました。マラソンやウォーキングも、ある意味で「健康貯金」をするためにやっているようなところもありますね。まあ、とにかく、ホッとしたというわけです。

■母にも、新しい老人ホームで頑張ってもらいたい。ということで、移動の日は、母が夕食をすませるのを見守ってから、あとは職員の方たちにお任せしすることにして帰宅しました。なんというか、幼稚園児が園に慣れるのを見守る親のような、その心境にちょっと似ているかもしれません。

大阪で同窓会

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■老母が兵庫県の施設から滋賀県の老人ホームに引越しをするため、今日は老人ホームに無事、荷物の搬入を行うことができました。それが終わったら、今度は大阪で同窓会。学生時代に入っていた関西学院交響楽団の同級生が、関東から関西に里帰りされたタイミングで同窓会を大阪で開催しました。近江の野菜をふんだんに使った料理で知られるレストランで夕食を楽しみました。次の同窓会は、フランス在住の同級生が帰国したタイミングでの新年会かな…と思っています。いろいろ話しが弾みましたが、今も現役で、あるいは復活してオーケストラで演奏している同級生の話しを聞くと羨ましくなりますね。

南部鉄瓶

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■左は南部鉄瓶です。南部鉄瓶とは、南部という名称からもわかるように、岩手県で生産される鋳物=南部鉄器の鉄瓶のことです。盛岡の鋳物は、江戸時代の初期に盛岡藩主が盛岡城を築城した頃からの歴史を持っていると聞いています。写真の南部鉄瓶は、今から13年前、岩手県立大学から龍谷大学に異動するときに、所属していた地域政策講座の先生方から送別の記念品として頂いたもの。大切にしています。少し赤みがかっています。だからでしょうか、紅葉の模様が入っています。まさに秋に相応しい鉄瓶ですね。

■今日は一日忙しくなりそうだったので、朝の時間だけでもこうやって南部鉄瓶でお茶をいただき、気持ちを穏やかにしようと思いました。この南部鉄瓶に入れたお茶は、滋賀県甲賀市の朝宮茶です。朝宮とは滋賀県の信楽にあり、この朝宮で生産されているお茶は五大銘茶の一つとして知られています。805年に天台宗の開祖である最澄が、中国から持って帰ったお茶の種を植えたのが始まりなのだとか。ちなみに、静岡のお茶は、臨済宗の開祖である栄西が宋から持ち帰ったお茶の種がルーツなので、両者を厳密に調べてみるとなにか差異があるのかもしれませんね。今日頂いた朝宮茶は煎茶でした。説明書には、渋みを減らして旨み成分を引き出すためには70℃のお湯がちょうど良いと書いてあります。そんなことは常識の範囲のことなのかもしれませんが、沸騰したお湯を入れそうになったのをストップして、少し冷ましてから南部鉄瓶に注ぎました。なるほど、私の入れ方でも旨味を感じました。朝宮茶は自宅にあった湯のみでいただきました。この湯のみも頂きものなのですが、どうも萩焼らしいです…自信がありませんけど。お茶のこと、勉強します。

■さて、そうしているうちに出かけなければならなくなりました。老母が兵庫県の施設から滋賀県の老人ホームに引越しをするため、今日は、まずは荷物から老人ホームに搬入することになったのです。本人は、次の週末に車で移動してもらうことにします。これまで8年間、兵庫県の母の家や入所した施設に毎週通ってきましたが、これからは少し私の身体も楽になりそうです。

ピアノと写真

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20161007photo.jpg■昨日は、施設に入所している母親の週1回の見舞いと洗濯物の交換の日でした。母を訪ねることに加えて、ここしばらくは、母の家の中にあるいらなくなったものを整理しているのですが、昨日は、大物の整理を行いました。ピアノです。木目調、マホガニーのアップライトピアノです。

■これは、妹が40年ほど前に弾いていたものです。妹は、幼い頃にピアノのレッスンを受けていましたが、どういう理由だっかすぐに止めてしまいました。あわなかったのでしょうね。私はヴァイオリンを、妹はピアノを習わされました。子どもたちがやりたいといったわけではないのです。しかも、両親はクラシック音楽に関する深い教養や強い関心があるわけでもありません。そのような両親がどうして、自分の子だちに音楽をさせようとしたのか。昭和一桁生まれで、青春時代が戦中・戦後であった人たちですから、おそらくは芸術に対する憧れのようなものがあったのでしょうね。

■そのようなことはともかく、40年近く家具のように置かれているだけの実家のピアノ、ピアノの下取り業者さんに引き取られていきました。傷も、米粒ほどのものが1つあるだけで、高い値段で引き取ってもらいました。なんでも、よくある黒いアップライトピアノであれば、もっと安い値段になったようですが、このようなマホガニーは数が少なく、業者さんの方でも色々探しておられるため、それなりの値段になったようです。ちなみに引き取った後は、どこに行くのでしょうか。業者さんに伺ってみました。北米を含む世界各国に届けられるのだそうです。実家で置物のように音を鳴らさずにいたピアノ、再び新品のように蘇って次の外国のお宅では素敵な音を鳴らしてほしいものです。

■下取りしてもらったピアノ、音を鳴らすことはほとんどありませんでしたが、家族や親戚の写真を飾る「台」のような役目は果たしていました。そのような飾られていた写真を整理していると、我が家の子どもたちが幼い頃の写真が出てきました。両親からすれば、孫の写真ということになります。懐かしいですね〜。しばしこれらの写真を眺めて、「こんな可愛らしい時もあったね〜」と1人物思いに耽っていました。後でふと気がつきましたが、子どもの写真をながめる自分の眼は、すでに「お祖父さんモード」になっていました。

城野団地

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■施設に入所している母の家の中の整理をしていると、このような写真…というか絵葉書が見つかりました。これは、私が1964年4月から1968年3月まで暮らしていた団地です。日本住宅公団が建設した城野団地です。福岡県北九州市の小倉区(現在の小倉北区)にありました。この絵葉書、私の推測でしかありませんが、この団地に住んでいる住民の皆さんに配布されたものではないかと思います。ちょっと残念なことに、マジックインキで何やら矢印の線が書き込んであります。この意味は、私にはよくわかりません。団地の集会所と花壇、そして最寄りの西鉄バスのバス停(三艆丸)か近くの小さなスーパーマーケット「丸は」のあたりを指していますが…。

■城野団地には、5階建と庭のついたテラスハウスの2種類の住宅がありました。5階建の方の間取りは、多くは3Kと呼ばれるタイプだったのではないかと思います。団地サイズの小さな畳でですが、6畳の部屋と4畳半の部屋が2つ、加えて板の間のキッチン…という小さな間取りです。私の家も、この「3K」でした。確か、「2215」というのが私の家の番号でした。22棟の1階の左から5番目ということですね。

■この写真=絵葉書を見ると、当時のことがいろいろ思い出されます。団地の外に出て遊んでは絶対にいけないと厳しく言われていたので、団地の中を自転車で走ったり、団地の中央にあるグランドに隣接する公園等で遊ぶことが多かったように思います。グランドでは、盆踊り、運動会、ラジオ体操、映画の映写会…様々な行事が行われていました。グランドに隣接する集会所では、お稽古事の教室が開かれていました。書道や絵の教室、バレエの教室…。私も、書道と絵の教室に通っていました。

■それから、5階建の住宅の間にあるコモンスペースも大切な遊び場でした。シロツメクサが一面に咲いていました。一度、大雪が降ったことがありました。九州ですが、玄界灘に面している福岡の北の方は積雪することがあるのです。その積もった雪で、大人も手伝って「カマクラ」を作ったことも記憶しています。今のように、刺激的なオモチャがあるわけではありませんから、自分の想像力を最大限に膨らませて遊んでいました。

■以下は、以前のエントリーに書いたことからの転載です。

団地に隣接する三郎丸の聾学校(現在の福岡県立小倉聴覚特別支援学校)が写っています。時々、こちらの学校の生徒さんに散髪をしていただきました。理髪の技術を身につける実習のような位置づけだったと思います。近くには、元々米軍基地だった自衛隊基地(松本清張の小説で知られる)がありました。鉄条網で囲まれて、中には歩哨の自衛隊員が銃をもって歩いていました。ドキドキしながら、近所の子どもたちとそばによって話しかけたこともありました…。近くには民族学校もありました。そこでは、赤いネッカチーフをまいた在日の少年少女たちが、左右に腕をふりながら並んで行進の練習をしていました。そのときは、素朴に、自分たちの運動会の練習とはずいぶん違うなあと思いました。まだ、帰還事業が行われていました。少し離れたところには、廃線になった線路がありました。かつて炭鉱につながっていた線路です。石炭を満載した貨車が走っていたのでしょう。私の少年の時には、すでにエネルギーは石油が中心になっていました。そういう時代でした。

忘れられたカニ缶

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■ここしばらく、毎週妻と一緒に老母宅に通っています。施設に入っている母の家の中のものを整理・処分するためです。いろんな方達から、「親の後始末」についてお聞きするのですが、当事者になって初めてその大変さがわかりました。こういうのを一気に処分してくれる業者さんもおられるようですね。しかし、我が家では、とりあえず身内で整理できるものは整理することにしました。

■「大量生産大量消費」の時代に家庭を持ち主婦として生きてきた母ですが、同時に、「もったいない」「まだ使える」「いつか役に立つのかも」という精神が生活習慣にまで染み込んでいたのだろうと思います。その結果、「時代」と「精神」との間に大きなギャッブが生まれ、そのギャップが大量のモノとなって母の家に詰まっているわけなのです。

■まずは衣服の整理から取り組みました。処分するものと、リサイクルに出すものとに分けました。その分類だけでも、結構時間がかかります。これでもかというぐらい、押入れや箪笥の中に衣服が詰め込まれていましたて。ビニール袋で何十袋にもなりました。びっくりする量です。そのうち、20袋はリサイクルショップに持ち込みました。査定価格は、なんと701円。滋賀県から兵庫県にある母の家まで高速に乗って通っているわけですが、高速代金、ガソリン代等を考えると「やってられん」という話しになります。しかし、そのままにしておくわけにもいきません。

■母は、洋裁と毛糸の手芸が趣味でした。素人目には、それなりに高い技術を持っていたように思います。作った作品はもちろんですが、買ったまま使われないままの毛糸が山のようにあるのです。これは、段ボール箱に入れて整理。有効利用していただけるどこかの団体に寄付しようと思う。問題は布や端切れ。これは有効利用することが可能なのでしょうか。縁側沿いの小さな物置に入っているのですが、まだ未着手のままです。これはどうしたものかな…。

■昨日は台所にも「突入」しました。いわゆるタッパーウェアの類が山のようにありました。これも全部処分。何かに使う予定のないまま、台所の棚に大量にしまわれていました。それから食器。食器については、使えるもの、使ってもいいな〜と思えるものがたくさんあるのですが、我が家の食器棚もかなりいっぱいなので、自宅に持ち帰ることに連れ合いは相当抵抗を感じているようです。一部、選択して使うとして、残りも全部処分することになりそうです。

■台所には保存食の類もたくさんありました。もちろん、全部処分の予定。写真のようなカニ缶もありました。おそらくは、お歳暮か何かでいただいたものなのだろう。ただし、「もったいない」としまっておくと、食料品は本当に「もったいない」ことになってしまいます。ちなみに、この缶詰の賞味期限は2010年でした。

■衣類、毛糸・端切れ、食器…それなりに目処が立ってきた。書籍の類も山ほどあります。古本を買い取り、その買い取り価格をNPOや自治体に寄付できる仕組み「チャリボン」という仕組みを持っている古書店に送る予定です。電化製品や家具の類についても、いろいろ考えないといけません。貼り替えたソファとか、がっしりしたダイニングテーブルとか…。まだまだ使えるのですが、これはどうしたものかな〜。こうやって老母宅を整理していると、大学時代の友人も同じような状況であることをfacebookを通して知りました。友人のご両親はすでに老人ホームに入所されているとのこと。そのため、家の中の整理を済ませて、住宅も売却する予定なのだそうだ。いろいろ相談に乗ってもらおうと思います。

■「母のおかげで、老いについて学ばせていただいている…」と思うようにしています。はい、無理やりに思うようにしています。「こうならないように、早めに、元気なうちに、できることはやっておこう」とは思っていますが、実際はどうなってしまうのかな…。学んだことを自分の人生の終わりに役立てることができるのか…あまり自信がありません。

【追記】■このエントリーとほぼ同様の内容をfacebookに投稿したところ、多くの皆さんから反応がありました。それぞれに、ご苦労されている様子が伝わってきました。また、調べているうちに、毛糸、端切れ、布、食器といったものも、いろいろ再利用してくださる団体があることもわかりました。あまり中身を見ずに、業者さんに頼んで一気に廃棄してしまうということも考えましたが、丁寧に整理していくことにします。

庭のキュウリ

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20160823niwanokyuri2.jpg■暑い日が続いていますが、頑張って庭の世話をしています。ガーデニングというと素敵な雰囲気がしますが、私がやっているのは朝夕の庭の水撒きと雑草抜き、この2つだけです。滝のように汗をかきながら、そして蚊に刺されながら(腰に蚊取り線香をぶら下げてはいますが…)、頑張って庭の世話をしています。地味な仕事ですが、嫌なことではありません。そこが不思議ですね。

■昨日の朝も、そうやって水撒きをしていたのですが、びっくりすることがありました。ずいぶん前に、庭にキュウリの苗を植えました。キュウリの成長にはあまり適した場所ではないのですが…。うちの庭では、ツルで伸びていく植物は、今のところ、小さな木製のフェンスのある一箇所に限られているのです。最初はあまり成長も良くなく、たぶん収穫できないだろうなぁ…と諦めていたのですが、陰に隠れて大きなキュウリが出てきたのです。大発見です。期待していなかっただけに、驚きました。しかも、もう少し調べてみると、もう1本実っていました。結構大きくなりすぎてしまったので、これは種を取ってウリのように炒め物にして食べるしかありませんかね。でも、楽しみです。

老いについて学ぶ

20160814kusakari1.jpg■施設に入所している老母の見舞いと洗濯物の交換をするために、週1回は、兵庫県まで行かないといけないのですが、ここ2週間ほどのあいだは、妻にお願いをしてもらっていました。母が施設に入っている間、母の見舞いだけでなく、同時に、母の「家の守り」もしなくてはいけません。毎週出かけては空気を入れ替え、家の中に湿気がこもらないようにしてきました。「家の守り」もなかなか大変です。特に、春から夏にかけては家の空気を入れ替えるだけではすみません。庭の草刈りが必要になるのです。「庭の守り」です。もう毎年のことで慣れてきましたが、特に夏の暑い頃は、ちょっとした期間で庭の草はどんどん伸びてきます。今回も、そろそろ「草刈りをしないといけないな…」と思っている間に、庭の草は伸びきっていました。草というか、木になりかけている…そんな感じです。12日(金)は、「庭の守り」をすることにしました。

20160814kusakari2.jpg■もし、これを手と鎌で刈ろうとすると、大変なことになります。気持ちが萎えてしまいます。しかし、母の家には、きちんと家庭用の電動式刈払機が用意してあります。加えて、庭木の剪定用のヘッジトリマーも用意してあります。電動式刈払機が草を刈る際、2種類の方法があります。金属刃を回転して刈払う方法と、ナイロン糸を回転させて刈払う方法です。通常の庭に生えてくる雑草であれば、ナイロン糸で十分なのですが、今回はナイロン糸では歯が立ちませんでした。まずは金属刃で硬いものを刈り取り、その後、ナイロン糸で刈り取るということになりました。草刈りに加えて、庭木の剪定もしなければなりませんでした。どういうわけは、庭にはイチジクの樹があり、毎年葉が茂るすぎるのです。こちらは、ヘッジトリマーを使って刈り取りました。小さな庭ですが、これだけの作業をするだけで3時間近くかかってしまいました。ちなみに、こうやって刈り取った雑草や葉、大きなビニール袋で6袋にもなりました。おそらく、中距離・遠距離介護をされている方たちは、私と同じように、親の家の管理に頭を悩まれておられるのではないでしょうか。

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■庭の作業を終えると昼食の時間帯はかなり過ぎていました。この日も施設に入っている母の世話は妻に頼んでありました。施設から戻った妻と一緒に、母の家の近くにあるイタリアンレスランに向かい、ピザとパスタでランチを楽しみました。「さあ、庭仕事も終えたし、家に帰ろうか…」となれば良いのですが、昼食後はまた母の家に戻り、今度は家の中のものの整理を始めました。7年前に父が亡くなり、父の遺品も含めて、そのままになっていたからです。まずは、衣服の類から整理を始めました。「どうして、こんなものまで取ってあるのかな…??」というものばかり。知人の女性は、「『いつか使える』『いつか必要になる』『もったいない』、戦争をかいくぐって来られた方々にとって様々な物は何かの時の出番があると思ってらっしゃると感じます」とおっしゃいます。加えて、母は年をとり、捨てる体力も気力も判断力もなくしてしまったのでしょう。これは、近い将来の自分のことでもあります。自分の子供たちに迷惑をかけないように、元気なうちにいろいろ準備をしなければなりません。親の介護をし続けながら、老いというどういうことなのかを学ばせていただいている…そのような気持ちになります。

父の日

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■先日の日曜日は、「父の日」でした。うちには、娘と息子がいます。2人とも自立しており世帯も別に構えていますが、その2人から「父の日」のプレゼントが送られてきました。娘からは、山形県で生産された「サクランボ」。息子からは、オーガニックの「虫除けスプレー」と「水出しコーヒー」。とっても嬉しいです。ありがとう、子供たち。

1年前の私

20160607wakita.jpg ■facebookを通して、多くの皆さんと交流しています。若い世代の皆さんは、facebookを利用することはあまりないようですね。私の印象であれば、もっぱら中年以上の世代の方たちが、学生時代の友人との再会を楽しむ…そんなSNSになってきているようですね。

■そのfacebookが、最近、過去の「この日」に、何を投稿していたのかを思い出させるサービスを提供しています。先日の私のばあいは、このような写真が現れました。投稿の文章を読むと、会議ばかりの日常を愚痴っている…そのような内容です。はっきりいって、状況は変わっていませんね~。変わったのは奈良から滋賀大津に転居したことでしょうか。通勤は、少しゆとりが生まれてきました。しかし、現在の「会議の多い生活」は、後10ヶ月は続く予定です。一生懸命残りの期間も真面目に働いて、年季が明けるのを楽しみにしようと思います。 写真は近鉄特急に乗っている窓に反射した私を、撮っているところです。アホなことをしていますね。もう、近鉄に乗ることもなくなくなりました…。

■最近は、若いときとは違って、休まないと身体に疲れがたまるようになってしまいました。週末は、母親の介護の問題もありますし、ゆっくり体を休める時間がほしいところです。歳を取りました。体力の回復に時間がかかるようになりました。身体だけでなく精神も含めて、健康に留意しなくてはいけません。また、ワークライフバランスにも、もっと気を付けないといけないと思うようになっています。

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